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「“困った人”って、誰のこと?」──当事者が炎上を見つめて考えたこと

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最近、『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』(神田裕子/三笠書房)という本が、SNSで炎上していますね。
発端は、そのタイトルや表紙のイラスト──“困った人”を動物の姿で描いた、という点なのではないでしょうか。

「発達障害のある人を“困ったやつ”扱いしてる」
「人間じゃなく動物として描くなんて、差別だ」
「“配慮されるべき”側の気持ちが無視されている」
そんな怒りの声がX(旧Twitter)を中心に広がっていていますね。

でも、私はそれを見て、少し引いたところに立っている自分に気づきました。
私は発達障害のある当事者です。確かに、言葉の選び方やイラストには違和感もあるにはあります。
でも、正直なところ「本当にそこまで炎上するほどのことなの?」という感覚の方が強くありました。

むしろ、こういう本こそ「特性」や「多様性」という言葉にまだ出会っていない人たちの入り口になるのではないか。
「職場の“困ったやつ”をどうにかしたい」という、切実だけど不器用な言語化しか持てていない人たちに──。

※この本は、この記事執筆時点(2025年4月中旬)ではまだ発売前です。
そのため、私自身は本文を読んでいません。この記事は、あくまで「タイトルや表紙に感じた第一印象」と「SNS上の批判や炎上の流れ」を見て、当事者として・発信者として考えたことをまとめたものです。

なぜ炎上したのか?──“正しさ”のぶつかり合い

『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』というタイトル。
そのうえ、表紙では非当事者は人間として描かれているのに、“困った人”がサルやナマケモノなど、動物の姿で描かれていました。
多くの人がそこに、「発達障害のある人たちを動物に例えて、家畜のようにコントロールしようとしている」と受け取ったんですね。

それでSNSでは、「これは差別だ」「当事者を“迷惑な存在”と決めつけている」といった怒りの声が広がったのだと思います。
実際、著者が「カサンドラ症候群の支援者」であることも、「当事者本人ではない視点から語っている」という不信感につながったのかもしれない。

けれど私は、その流れや反応を見て少しだけ立ち止まりました。

この本は「発達障害だから困った人」と言っているのではなくて、
「“困った人”の背景に、発達障害や精神疾患などの困りごとが隠れていることもある」ということを、
まだ気づいていない人に向けて示唆してくれている可能性だってある──そう感じました。

普段デザイナーとして活動する私にとって、「ターゲットを意識する」ということはとても大切な視点です。
だからこそ、「まだ言語化できていないけれど困っている、『なんとかしたい』と考える人たち」をターゲットとして考えると、
むしろとても適切で、そのターゲットの苦しみに寄り添ったタイトルのではないかな、と思ったのです。

「職場の“あの人”がなぜうまくコミュニケーションできないのか」
「どうして空気が読めないように感じるのか」
そんな“言語化されていない違和感”を抱える人に対して、
この本は「もしかしたら、特性があるのかもしれないよ」という視点を開く“きっかけ”になるのかもしれないと思うのです。

炎上の構造は、アファーマティブアクションなどの動きでもよく見られるのではないでしょうか。
「正しさ」や「配慮」が一方通行になると、逆に誰かを萎縮させたり、心を閉ざさせてしまったりすることもあると思うんです。
その結果、本当は必要だった“対話のチャンス”が、こぼれ落ちてしまうんじゃないかな……(専門家じゃないので、あまり詳しく話せるわけではないのですが)。

当事者として、そして“編集する人”として思うこと

私は発達障害のある当事者です。
でも、今この騒動で怒りを露わにしている人たちと同じ感情を持っているかというと、少し違うかな、とも思います。

もちろん「困った人」と言われたり、動物に揶揄されたりすることがイヤじゃないわけじゃありません。
でも「あの人、ほんとどう接していいか分からないんだよね……」と困っている人の気持ちも、わかってしまうんです。
今怒っている当事者同士でさえ、特性が違ってお互いの困りごとへの理解が薄ければトラブルやストレスの原因になることもあるのですから。

それはもしかしたら、自分が“困らせてしまった側”にも“困ってしまった側”にもなったこともあるからかもしれません。

約束ごとを忘れてすっぽかしてしまい、信頼関係に亀裂が入ってしまったこともあります。
空気を読めずに相手を疲れさせたこと。伝えたいことがうまく言えずに、誤解されたこと。
あとで気づいて、何とも言えない気持ちになって恥ずかしくて枕を叩き続けたこともあります。

逆に、どう話してもこちらの意図を理解してもらえず、トラブルになってしまったり、
約束ごとを守ってもらえず悲しい気持ちになったり、お互いのこだわりが強く考えがすれ違いすぎて『話を聞いてくれない』という感覚になったりした瞬間もあります。

だから、「自分たちは『困っている』側であり、配慮されるべきなのだ」と当事者が主張し、自分の考えを発信できる時代になったことは良いことだと思いますが、
実際それを受け取る側にとっても“負担”になることがある、という現実もちゃんと見ていたいと思います。

同時に私は、『凸凹といろ。』で編集や発信に関わる活動もしていますし、普段デザイナーとして働いています。
だからこそ、この本のタイトルやビジュアルの“引っかかり”が、意図的に設計されたものかもしれない、という感覚を持っている面もあります。

何かを伝えたいとき、どうしても“届かせるための言葉”が必要になると思うんです。
その言葉がキャッチーであるほど、誰かにとっては痛いものになることもあるとも思います。
でもそれは、「誰かを傷つけたいから」ではなくて、「読むべき人に届いてほしいから」という“願い”から生まれた可能性もあると思ています。

本当に困っているのは誰か?──違和感の正体と、“モデル”のすれ違い

「私たちは“困った人”じゃなくて、“困っている人”なんだ」
その言葉にはたしかに真実があるし、悲痛な心の傷さえも感じます。
けれど、私はその言葉に少しだけ、気持ち悪さに近い違和感を感じました。

「困っているんだから仕方ない」「頑張ってるんだから、譲歩して」──
そんなふうに、“当事者であること”を盾にしてしまっていないだろうか?

“困った人”と“困っている人”は、実は重なっていると思います。
お互いが、お互いの「どう接していいか分からない」に苦しんでいるのではないかと思うんです。

障害の捉え方には、「個人モデル」と「社会モデル」があります。

● 個人モデル:障害は本人の能力や性質の問題として見る視点
● 社会モデル:障害は社会の側にある環境や制度が“壁”となっているという視点

実は、私は『凸凹といろ。』の活動をするまで「自分は当事者だ」という感覚はありましたが、不勉強で無知でした。
みなさんに教えていただきながらこういう考え方があるのだということを知っていっている最中です。
それまでは『個人モデル』の考えしか持っていなかった私にとって『社会モデル』という考え方を知った時は目からうろこでした。

勉強をさせていただくにつれ、『社会モデル』が広まることで、多くの当事者が救われてきたのだと強く感じてもいます。
けれど最近では、「社会が変わるべき」という主張が強くなりすぎて、
当事者自身の内省や努力を「個人モデル的だ」と批判する声も見かけるようになったとも感じています。

私は、どちらかだけではなく、どちらも必要だと思う。
社会も変わるべきだし、当事者自身もまた「社会の一部」であることを忘れたくないと思うのです。

“正しさ”よりも、対話を

今回の炎上では、当事者が「私たちは配慮されるべき存在だ」と声を荒げることで、

「じゃあこっちはもう黙るしかないのか?」
「実際にそういう人たちに困ってて、こっちが病みそうなんだ!」

と感じてしまう人も生まれていました。
まさに“困った人”が“困った人”を生み、 対立のループが加速してしまっているように感じるのです。
それを見て「とても悲しい流れだな」と感じました。

「理解されたい」と願う当事者が、どうしてこうも分断を深めかねない方向へ進んでしまうのか。
その問いに、私はまだうまく答えを出せていない。

「この表紙を見て死にたくなった」「生まれてきてごめんなさい」──
そんな声も見かけました。でも、そんなふうに自分を責めなくていいと思うんです。

過去の傷を大切にしつつも、それに飲み込まれてしまわないようにしてほしい。
傷つき続けている渦中の人にとって、とても難しいことかもしれないというのはもちろん承知していますが、
どうか落ち着いた時に振り返ってみてほしいと思います。
「この表現に傷ついたから全部ダメ」ではなく、「これは入り口かもしれない」と一度受け止めることで、
新たな視点が見えてくることもあるはずだと思います。

私はこの炎上を、表現の是非だけでなく、
「なぜ、ここまでわかり合えなくなってしまったのか」という問いとして受け止めたいと思います。

この時代の流れに対応しきれず困惑する人、過剰になってしまう人、過激に攻撃してしまう人、ついていけない人。
『困っている』のは、きっとどちらかじゃなくて、“みんな”なのだと思います。

あとがき

正直、最初にこの書影を見た時すぐに思ったのは「この本を買う人って、悪意のある人じゃない」し、
「障害のある人をどうにかしてやろう」と思っているような人じゃないと思うんです。

むしろ、
「どう接していいかわからない」
「何度説明しても伝わらない」
「なんで予定通りに動いてくれないのか分からない」

そうやって、言葉にならない関係のしんどさを抱えながらも、
それでも「どうにかしたい」と思ってくれている人たちなのではないかと、私は思います。

この書籍の書影や表現が、当事者にとってつらく感じられるだろうことは明らかな事実です。
「ひどいな」とも思う気持ちもあります。
でも、この本を手に取るような人たちは、発達障害や精神疾患と関わる経験がなかった人なのではないでしょうか。
「どう関わればいいのか分からないけど、それでも向き合いたい」と考える人が
“無知の状態”から“未知の領域”へ踏み出していこうとする、最初の一歩になる一つのきっかけになるとも思えるのです。

障害を社会モデルで考えるなら、
今回のような混乱や反発もまた、ある種の“副作用”だと言えるかもしれません。

でも副作用があるということは、それだけ時代が変化し動き出している証でもあると私は考えています。

むしろこれは、次のステージへと進むための、ひとつの通過点──
新しい「関係のあり方」を模索する時代の始まりなのかもしれませんね。

炎上し排除するのではなく、対話し、歩み寄るためのきっかけにしていきたいですね。

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