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コラム

何度つまずいても、人生はやり直せる。〜50歳を目前に発達障害と向き合った作家・ソラノカナタが綴る、 生きづらさを“光”に変えるヒント。〜

2025.11.06

何度つまずいても、人生はやり直せる。
50歳を目前に発達障害と向き合った作家・ソラノカナタが綴る、
生きづらさを“光”に変えるヒント。

「変わってる」と言われ続けて

私はアスペルガーです。

「アスペルガー症候群」は、現在は自閉スペクトラム症に含まれており診断名としては使用されていませんが、私を一言で表すのにいちばんしっくりくるので、好んでアスペルガーと表現しています。

48歳で、ASDとADHDの確定診断を受けました。

幼少期から「変わった子」と言われ続け、私自身「自分はみんなと何かが違う」という違和感を抱え、生きづらさを感じながら生きてきました。

中学生くらいになると、得意と不得意の凸凹が色濃くなってきました。
小学生の時はわりと勉強ができるほうだったんですが、数学がわからなさすぎて、入り口で早々に躓きました。
反対に、国語と音楽は大の得意。だけど数学がさっぱりで足を引っ張りまくり、全体の成績は平均的なものにとどまりました。

コミュニケーションの問題が重症化してきたのもこの頃から。
女性同士の世界になじめず、よくいじめられました。

高校生の時は、いじめはなかったんですが、ある日突然、学校に行けなくなって、出席日数ギリギリで卒業しました。

学校だけでなく家庭内でも喧嘩や揉め事が絶えず、人間関係においてはずっとトラブル続きでこじれっぱなし。
自分の想いを上手く表現できなくて、人とまともに会話ができず、ひとりでは外出もままならない。
ひどいコミュ障でした。

だけど文章で表現することは得意でした。

本当に口数が少ない子だったので、大人しい見た目とのギャップに驚かれ、学校で書かされる作文はいつも褒められていました。
高校時代には担任の先生が「あなたは作家になりなさい」と強く勧めてくれたほど。

もの書きになるのは私の夢だったから、この言葉は嬉しかったですね。

幼少期から発達障害の特性がこんなに露呈していたにもかかわらず、40代になるまで見逃されてきました。
当時はいまほど発達障害が認知されていなくて、自分でも気づく術がなかった。
もっと早くに自分の特性に気づいていたら、もしかしたら少しは人生が変わっていたかもしれない。
そんなふうに思うこともあります。

重度のコミュ障だった私を変えてくれたもの

そんな私が変わりはじめたのは、20歳の頃。

子どもの頃から人前で歌ったりパフォーマンスをするのが好きだった私は、音楽活動を始めました。
音楽を通して人と積極的に関わることができるようになったおかげで、徐々に人と話せるようになっていきました。

そして、20代前半でさらに大きな転機が。
実家を離れて大阪で暮らすようになってから、ずいぶんと楽に生きられるようになったんです。
大阪での生活は慣れるまでは苦労しましたが、大阪は親切で優しい人たちばかりなので、私には合っていたんです。

環境を変えることで人生ってかなり変わるんですよね。

大阪に出てきてからは、仕事とコミュニケーションのスキルを少しずつ磨いていきました。最初のうちは、どこに行っても仕事ができなくて。
職場の人たちとどうも噛み合わず、アルバイトを転々としました。
自分なりに必死にやっていたんですが、どれも長続きしなかったです。

20代半ばで派遣社員として事務職をするようになって。
やっぱり職場は転々としましたが、事務の仕事は10年ほど続けました。
なかには合わない職場もあったけれど「私も仕事ができるんだ」と、次第に自信がついていきましたね。

パソコン作業が好きで、もっと専門的な仕事をしたいと思うようになり、めっちゃ勉強して30代半ばでIT業界に転職しました。
長いこと非正規で頑張ってきましたが、39歳でやっと正社員になれました。

苦手なマルチタスクをやりすぎて休職に至る

決まりきったことを早く正確にこなすのは得意だけど、自分で考えて動くのが苦手な私。
定型化できる業務が多いシステム運用の仕事は自分に合っていたのですが、主体的に動くことが求められるシステムエンジニアになってからは仕事がスムーズにいかないことが多くなっていきました。

そのうち、仕事で失敗をしてしまって。
その原因を探るうちに、自分は発達障害なのではないかと疑うようになりました。
ネットの情報や書籍を読み漁って、それは確信に変わりました。

脳波検査を受けてみて中等度のASDとADHDであることが判明したんですが、この時点では確定診断には至らなくて。

その後も仕事を続けていましたが、だんだん業務が忙しくなってきたことで、ついに自分の許容範囲を超えてしまいました。
発達特性によりマルチタスクを苦手とする私は、複数のタスクを並行してこなそうとすると混乱してしまいます。
業務量が急激に増えたことで上手く処理できなくなり、過度なマルチタスクをやり続けた結果、脳がバグってしまったんです。

仕事をするのがつらくなってクリニックを受診すると適応障害と診断され、休職することになりました。

休職中に発達障害の精密検査を受けたところ、ついに確定診断が下りました。
生きづらさの謎が解けてスッキリしましたね。

休職してからは『無理しない、我慢しない、頑張りすぎない』が自分との合言葉。
いまは、休職する前の元気だった時よりもずっと元気です!

1年間休職した後、会社を退職しました。
無理さえしなければ仕事もできるくらいには回復していたんですが、会社との調整が上手くいかなくて残念ながら復職には至りませんでした。

しかしこれは、私にとっては前向きな選択でもあります。
これからは自分の得意を活かして、自分の好きなこと、本当にやりたかったことを叶えるために前に進もうと決意しました。

自分の得意と向き合うことで世界は広がっていく

自分の書いたものや歌ったものを作品にしてこの世に遺すことが私の夢なのですが、このたび電子書籍を出版し、念願だった作家デビューを果たしました。

これもアスペルガーのおかげで、普通の人にはなかなかできない貴重な経験ができたからこそだと私は思っています。

そして、高校時代の私に作家になるよう勧めてくれた先生と30年ぶりにお話しさせていただく機会があり、「何か書いてみたら?」と再び背中を押してくださったことも、私にとって大きな力になりました。

みんなが普通にできることは私にはできないことが多いけど、みんなが普通にできないことが私にはできる。
これは私の誇りです。

自分の「好き」や「得意」とちゃんと向き合う。これ、やっぱり大事ですよね。

私の場合、歌うことと書くことが好きで得意なのはずっと変わらなかったのに、遠回りし過ぎたかなと思うことがあります。
でもそれも、アスペルガーな私らしいかな。
いろんな経験ができたこと。いろんな学びがあったこと。いろんな人たちと知り合えたこと。
それは間違いなく、私の財産になっています。

私は超前向きなアスペルガー。
転んでもタダでは起きません。
一見マイナスに思えるようなことでも絶対にプラスにしてやろうと思って生きています。

そう、発達障害だってプラスに変えられる!
発達障害は「弱み」じゃなく「強み」にできるんだ!

生きづらさを抱えている皆さんが、少しでも生きやすくなりますように。
私が誰かの言葉に救われたように、私の言葉が誰かの生きる力になってくれたなら、これ以上の喜びはありません。

寄稿者

ソラノカナタ ASD/ADHD当事者

“絶対文感”をもつ作家。
ASD×ADHDの“超前向きアスペルガー”。
48歳で発達障害の確定診断を受けたことをきっかけに執筆活動を開始。生きづらさを力に変える言葉を紡ぐ。
代表作は『アスペルガーな私のやらかし人生』『“逆FIRE”しちゃいました!』
三度の飯より大好きなものは、歌うこと・書くこと・読むこと・阪神タイガース。
ソラノカナタさんX

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