「気にしすぎ」と言う前に、私たちは立ち止まれているだろうか
「そんなの気にしすぎだよ」
「みんな大変だよ」
誰かが「つらい」と口にしたとき、私たちはどれほど本気で、その言葉を受け取っているだろう。
私たちは日常の多くを、音や光、匂い、触感といった“感覚”に囲まれて生きている。
けれど、その感じ方にさえ違いがあることを、どれほど意識しているだろう。
見えない不快や、説明しきれない違和感は、「気のせい」や「甘え」として受け取られることがある。
もちろん、そこに悪意があるとは限らない。
むしろ、“感じない側”でいることは、社会の中でごく自然に選び取れてしまう立場だ。
だが、当事者以外、一体どうやって体感できるのか。
映画『Feel / Unfeel』が問いかけているもの
2026年初夏に公開されるドキュメンタリー映画『Feel/Unfeel』が問いかけるのは、感覚の特性そのものではない。
感じる人と、感じない人のあいだで、何がすれ違い、社会はどこまで引き受けてきただろうか。
『ノルマル17歳。』の先に残った違和感

本作を手がけたのは、北宗羽介監督。
『ノルマル17歳。―わたしたちはADHD―』を撮った監督だ。
当事者や発達障害に関心のある人であれば、見聞きした人が多い作品かもしれない。
正反対の性格や趣向の女子高生2人がADHDという共通点から関係性を深め、生きづらさを抱えながら社会や周囲と向き合う様が描かれている。

「忘れないようにしていたのに、遅刻してだらしないと思われてしまった」
「日常生活がどうしても”普通”に過ごせないから、家族とも友達ともうまくいかない」
これらは特性による困り具合を表したシーンの一つに過ぎない。
東京で7週間のロングランを迎え、自治体や病院、大学などで累計70箇所以上も自主上映される盛況ぶりとなり、アメリカでの上映も計画している。
そんな華々しい反響の一方で、実話に基づいて作られたこの物語に「パターン化した表現だ」という声が上がったことも事実だった。
当事者からすれば、それは間違いなく「リアルな日常」の一場面だ。
しかし、個人の好き・嫌いとはまた異なる類の、「気に留めるほどでない存在」だとも解釈されたのだ。
つまり、「何も感じられなかった」といえる。
そうなると、“普通”とは一体何なのだろう。
「設計の基準点は動いていないのに、多様性は『あるもの』として語られ、『扱うもの』であることが忘れられているのかもしれない。」と北監督は語る。
『Feel/Unfeel』は、「当事者がどんな困難を抱えているのか」をわかりやすく説明する映画ではない。
むしろ、困難がうまく伝わらないまま、日常が進んでいく構造そのものに視線を向けている。
「社会は多数派にとって便利なように設計されている。その設計図からこぼれ落ちた感覚は、存在しないものとして扱われてしまう」
監督が抱くこの危機感こそが、今作に至る「感じる・感じない」をめぐる違和感の正体なのだ。
「感じすぎる」「感じにくい」感覚のグラデーション
本作の題材となっているのは、発達障害の特性の一つである「感覚過敏」と「感覚鈍麻」だ。
(発達障害のほか、精神疾患や高次脳機能障害、また障害や疾患と診断されない方でもこの特性が見られることがある)
感覚過敏とは、音や光、匂い、触感といった刺激が強く作用し、強い不快感(疲労や混乱、パニック、怒りなど)や痛みとして表に出やすくなる。
タグのない服や、ヘッドフォン、サングラスなどが、単なるおしゃれ目的でない可能性もあるわけだ。
対して、感覚鈍麻は痛みや温度、身体の位置感覚などが弱く作用する状態だ。
けがや体調不良に気づきにくいなど、結果としてリスクが見えづらくなることもある。
また、感覚過敏と感覚鈍麻は真逆の特性をもつが、どちらか一方だけでなくその時の状態によって同時に起こることもある。
例えば当事者である筆者は、ストレスを強く感じる際は電車内では耳栓がないと強い刺激になり、無我夢中で仕事をこなしてから身体の疲労に気づくことが多々ある。
※感覚過敏・感覚鈍麻についてのより詳しい解説は、田邉先生による既存の記事などを参照してほしい。
問題は「特性」ではなく、受け取られ方にある

『Feel/Unfeel』が描くのは、特性そのものよりも、それを前にしたときに生じる当事者と非当事者のすれ違いだ。
「音が気になるからイヤーマフを着用したが、今度は自分の心臓の音でうるさくなってしまう」こんなエピソードを聞いたとして、どんな反応が返ってくるだろうか。
「多様性を大事にしよう」という言葉は広がったが、それぞれの”違い”は十分に共有されているのだろうか。
当事者は「つらい」と伝えても、非当事者には、そのつらさが実感として届かない。
感じられない。
想像できない。
目に見えない。
すると、何も起きていないように見えてしまう。
その断絶は、「わかっているつもり」「配慮しているつもり」という無自覚な態度の中で、静かに積み重なっていく。
その「つもり」は、本当の意味での相互性を遠ざけてはいないだろうか。
「感じない(Unfeel)」のは、無関心だからだけではない。
膨大な情報や固定観念にさらされ、私たちが本来持っているはずの「微細な感覚を捉える力」そのものが麻痺してしまっているのではないか。
監督の視線は、当事者を取り巻く「感じない社会」の空虚さにも向けられている。
答えを急がないために、集められた声

本作では、研究者、当事者、家族、医師、教育支援員、作業療法士など、30人以上の立場の人々が登場する。
五感すべてが過敏な人。感覚過敏を緩和する製品開発に携わる当事者。
知的障害や聴覚障害を持ちながらも「絵」という表現を通して、自分の世界を切り開いた人。
また、当事者を支える側として、支援犬をトレーニングする人や、ADHD当事者でもある医師の視点も映し出される。
これら多くの事例は、単なる紹介や列挙のためではない。
「感じる世界が違う」という事実を、どうすれば同じ社会の中で引き受けられるのか。
その問いを立体的に浮かび上がらせるためだ。
「光がまぶしい」
「音がうるさい」
その言葉を、自分の感覚で判断してしまうのか。
それとも、相手の世界で起きている出来事として一度立ち止まれるのか。
無意識のうちに判断された「自分には問題ない」という基準からこぼれ落ちた感覚は、見えにくいまま放置されがちだ。
理解できなくても、隣に立つことはできるか
『Feel/Unfeel』が突きつけるのは、「理解できるかどうか」ではなく、理解できなくてもなお、同じ社会を生きる他者としてどう隣に立つのか、という問いなのかもしれない。
童話『星の王子さま』の言葉のように、大切なものは目に見えない。
発達障害のある人もまた、定型発達者側の「感じる」を感じ取れないといえるのだろう。
感じすぎる人。
感じたい人。
感じようとしない人。
「誰も悪くないのに、なぜか噛み合わない」
そんな瞬間は、誰にでもあるだろう。
『Feel/Unfeel』は、誰かを説得するための作品ではない。
見過ごされがちな感覚や違和感を、ただ丁寧に差し出す映画だ。
「なぜ、わかろうとしてくれないのか」と問う前に。
あるいは「わかったつもり」で通り過ぎる前に。
「Don’t think, Feel」――頭で理解しようとするのを一度やめ、ただ隣に立つ誰かの「世界」を、そのまま感じてみる。
その一歩が、分断された世界を繋ぎ直す唯一の道なのかもしれない。
映画『Feel / Unfeel』公式サイト
映画『Feel / Unfeel』の公式サイトでは、北宗羽介監督自身の言葉で、この映画をつくるに至った背景や問題意識が綴られています。
「感じる/感じない」というテーマが、 単なる特性の話ではなく、 社会の設計や空気、私たちの態度そのものに向けられた問いであることが、よりはっきりと伝わってくるはずです。
▶ 映画『Feel / Unfeel』公式サイト
→あわせて観たい
北宗羽介監督が、Kaien様のYouTube『発達の主張Live』にて本作について語っています。
映画に込めた問題意識や、社会への違和感を知る手がかりとして、あわせてご覧ください。
▶ Kaien 対談配信(YouTube)
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