家庭の中での虐待、親との絶縁、そして発達障害との共生。
一見、重く感じられるこれらの言葉の先に、彼女は確かに「幸せ」を見つけていました。
今回ご紹介するのは、毒親のもとで育ち、長年苦しみながらもピアノを通して自分の生き方を取り戻した一人の女性の物語です。
「毒親育ちでも、幸せになれる。」
その言葉には、過去を乗り越えた彼女の確かな実感と、同じように苦しむ誰かへの願いが込められています。

どのような環境で育ちましたか?
私の子供時代は、ADHDの傾向が強くて、多動が目立つ落ち着きのない子供でした。
学校の給食の時間なども動き回ってしまったりと、食べることに集中できていないことが多かったです。
ASD傾向もあって、こだわりが強かったり、人を傷つけてしまうようなことを言ってしまうこともあり、小中高はずっといじめられていました。
そういったことが原因としてあるのかわかりませんが、母親からも、“躾”と称して虐待を受けていました。
父親も発達障害で、私と同じようにこだわりが強かったり、衝動的に動いたりするような人でした。
そして、アルコール中毒でもありました。
更に、親には借金があり、取り立てなどが常に家に来ていたような生活で、学校にも家にも居場所や逃げる場所がありませんでした。
いつからだったのか明確には覚えていないのですが、幼少の頃から虐待をされていました。
親の機嫌が悪かったり、少し口答えをするだけで殴られていましたし、家に入れてもらえなかったり、食事をさせてもらえなかったり。
食べるのが遅いと床に食べ物をばら撒いて、それを食べさせられるというようなこともありました。
何がきっかけだったのかは覚えていませんが、私が小学校3年生ぐらいの時に、親が目の前で喧嘩をしていて、私の事を指して「言う事を聞かない子は殺しましょう」と言われたこともあります。
高校生の時には、母親が突然発狂したように怒りはじめ、
「学校もピアノも辞めろ、もう支援はしない、家から出ていけ」
というようなことを言われました。
突然怒りだすことが多く、私に関係のないことでも、何かあれば全て私にぶつけられていたような気がします。
暴力を振るう時の母親は、いつも口角が上がっていました。
私の事を嫌っていたんだと思います。
当時、「自分は虐待をされている」と認識していましたか?
今思い返すと虐待だったと明確に認識できるのですが、子供の頃は「厳しい親だな…」、と思っているだけでした。
ちょっと変だと思っていただけです。
友達の家に遊びにいくことを禁止されていたり、それがバレると暴言を浴びせられたり、暴力を振るわれていました。
みんなゲーム機なんかを持っていたのに、それも禁止されていたし、テレビ番組は親が指定したものしか見てはいけませんでした。
流行っているアニメがあって、それだけは必死で説得して見せてもらいましたが、母親は不満そうでした。
これも幼少の頃からですが、勉強に関しても常に厳しくて、近所迷惑になるぐらいの大声で暴言を浴びせられながら、深夜遅くまで寝ることも許されず勉強をさせられていました。
それでも、偏差値の高い学校には行くことはできませんでした。
私は勉強が苦手でしたがそんなことは関係なく、無理やり暴言暴力の中で勉強を強要されるような日々でした。
今思い返すと、何をするにも常に束縛をされていました。
ご両親との今の関係は?
今は絶縁しています。
20歳の時に住民票閲覧制限をかけたので住んでいるところはわからないですし、連絡手段もLINEや電話も全て繋がらないようにブロックしています。
実家にいた頃、大学生になってからアルバイトをしても良いことになってはいたのですが、常に稼いだお金を管理されていました。
それでも、母親から逃げたかったのでそのための資金を作るために援助交際をしていたんです。
ある日、客だった人から嫌がらせを受けるようになり、実家のポストに「娘が援助交際をしてる」と書いた紙を入れられて絵しまいました。
それが母に見つかってしまったんです。
母親が発狂しボコボコになるまで暴力を振るわれて、「家出をしても追いかけて必ず見つける」と言われました。
それでも私は家出をしました。
もうこんな親と暮らす事や生活が嫌だったんです。
その後落ち着いて一人暮らしをしていたのですが、その当時は母親は私が住んでいるところを知っていて、頻繁に連絡があったり、「合鍵を作らないと許さない」と言われたり……。
離れていても束縛を続けようとする母から逃れたい一心で絶縁を決意しました。
現在は明るく過ごせているように 感じます。
そうなれたきっかけは?
親との絶縁もありますが、一番大きなきっかけとしては、今の旦那さんとの出会いがあります。
実家にいた頃、SNSをすることも、インターネットで動画を見ることも、遊びに出かけることも、旅行をすることも、私がやりたい事の全てを制限され、禁止されていました。
ですがピアノだけは、実家にいた頃から唯一させてもらえる私が好きなことでした。
先生からの指導は厳しかったですが、ピアノを続けることが出来ていたことだけは良かったと思います。
実家と絶縁してからの私は解放され、様々なことを楽しめるようになりました。
その中の一つが、ストリートピアノで演奏活動です。
それが旦那さんとの出会いのきっかけです。
ピアノを弾き終わった時に、
「すごく良かったです。お茶に行きませんか?」
と声をかけられたんです。
でも、当時の私は今までの経験から人間不信になっていて警戒してしまい、電話番号などの連絡先は教えずSNSの交換のみで終わりました。
その後はDMで連絡があったり、ストリートピアノをするときに応援にきてくれたりしていましたが、しばらくはずっとそんな距離感でしたね。
私の生い立ちや経験をnoteにまとめているのですが、それを見て「こんなに酷い目にあったんだね」とか、「大丈夫だよ。怖がらなくていいよ。」と声をかけてくれたのが本当に嬉しかったです。
適切な距離をとりながらも見守ってくれる優しい方でした。
それから少しずつ親しくなり、5ヶ月程経った頃に正式にお付き合いをすることになりました。
最近ご結婚されたようですが、 旦那さんとの関わり方は?
私は大人になった今でも衝動的な行動や発言で相手を傷つけそうになってしまうことも多いんです。
旦那さんは、そういったことに対して「こうした方が良かったよ」とか、アドバイスをしてくれたりする、有難い存在です。
旦那さんは昔、特別支援の教員をしていた経験があるので、発達障害に対しても理解があり、私をありのまま受けいれてくれています。
旦那さん曰く、私は「特別支援にいる子たちよりも特性が強い」のだそうですが……(笑)
今、幸せだと感じる瞬間は?
家でゴロゴロしていたり、ゲームをしていても怒られないことです。
旦那さんが帰ってきた時に遊んでいても怒られません。
お菓子も好きな時間に食べられるし、何をしていても怒られないんです。
そんな当たり前の自由が、本当に幸せに感じています!最高です!
同じような境遇の人に伝えたいことは?
とにかく逃げてください。
そして逃げるのなら「住民票閲覧制限」は必ずかけてほしい。
私の場合、母親からの支配や執着が異常だったので居場所がわからないようにすることは徹底しました。
ただ、皆さんに伝えたいことは「毒親育ちでも、諦めなければ幸せになれる」という事です。
このことは忘れないでほしいと思います。
恨む気持ちもあるかもしれませんが、恨まずとも「因果応報」はあると思います。
人にやったことは、自分に返ってくるんです。
だから、毒親のことを気にせず自分を第一に考えてください。
これからも活動を通して今までの出来事や経験を発信しながら、私と同じように育った人に「幸せになることを諦めないでほしい」ということを伝えていきたいです。
ゆき ASD/ADHD当事者
2000年9月生まれ。3歳でピアノを始め、幼少期にはコンペティションに多数参加。
中学では東京音大のホールでの演奏経験を持つ。
高校時代はショパンのスケルツォ第2番やバラード1番など難曲を演奏。
高校卒業後は、インカレピアノサークルに所属。
また、youtube活動をはじめ、ストリートピアノなど幅広く演奏活動に取り組み、テレビ出演も果たす。
また、別番組の記者よりピアノを軸とした取材を受け、動画化された。
現在は幅広く演奏活動を続けるとともに、音楽活動の普及に尽力している。