お取り寄せページ
連載

【プロヒバ連載第2回】 『ヒバリが巣立つまで。』に込めた思いを、まごいちさんと語る

舞台作品『ヒバリが巣立つまで。』の企画・脚本を手がけるプロデューサー、八柳まごいちさんへのインタビューです(まごいちさんへの過去インタビュー連載第1回もあわせてどうぞ)。
当事者であることは、誰かを「わかる」ことと同じなのか。
『生きづらさ』とは、特定の人だけのものなのか。
そして、過去の傷や怒りと、人はどう付き合っていけるのか。
タイトル変更の背景から創作の原動力、ドキュメンタリーへの思いまで、ゆーとまごいちさんの対談でお届けします。

「巣立つ時」ではなく、「巣立つまで。」

ゆー:第2稿の台本、ざっと見ただけでも結構変わってますよね。
キャラクターの掘り下げ方とか、全体の意味づけみたいなものが。

まごいち:起きた出来事自体はあんまり変わってないんですけど、ヒバリくんとサクラちゃんの立ち位置を大きく変えました。

ゆー:タイトルも変わりましたよね。
最初『巣立つ時』にしようとしていたのを『ヒバリが巣立つまで。』に変えたのは?

まごいち:もともとは、ヒバリくんが教育実習でいろんな人と出会って、今まで抱えてきたものに区切りをつけて新しい一歩を踏み出す、「第二の卒業」みたいな意味合いで『巣立つ時』にしてたんです。
でも人間の成長って、ここで切り替わって急に成長する、みたいなものではなくて、連続性の中で地道に起きていくものだと思っていて。
たしかに「ここが転機になりました」みたいなことはあるのかもしれないけど、そこで一気にゴールに行き着くわけでも、めちゃくちゃ変わるわけでもなくて、一つひとつ積み上げていくものなんですよね。
この作品って、ヒバリくんが「当事者性を活かして子どもの問題を解決しました、やったー!」っていう当事者の成功物語じゃないんです。
自分は当事者だから寄り添えるはずだと思っていたけれど、実際は全然そんな簡単な話ではなかった。
そのことを受け止めていく話なんですよね。
だから巣立つ「瞬間」じゃなくて、向き合う「まで」を描く話なんじゃないかと思って変えました。

ゆー:何かを乗り越えて終わる話というより、自分や周囲の人々と向き合い始める時間を描こうとしているんですね。

まごいち:そうですね。
5年前の原作は「発達障害を題材にしたお話」という感じが強かったんですけど、今回のリメイク版は「『生きづらさ』そのもの」にどう寄り添うか、というところに視点が移ってきています。

八柳まごいちさん
『プロジェクトヒバリ』プロデューサー八柳まごいちさん

感動させるだけで終わらせたくない

ゆー:前に「感動させるだけで終わらせたくない」と話されていたのが印象に残っています。
改めて、この作品を通して何を残したいですか?

まごいち:今やってることって、舞台だけじゃなくて、ブログとか支援者や当事者へのインタビューとか、上演後のアフタートークも含めた企画なんです。

プロジェクトヒバリのインタビュー記事:note

大事にしたいのは、支援している人や当事者のことを、「こういう人がいるらしい」っていう、ぼんやりしたものではなく、「ちゃんといるんだ」って感じてもらうことなんです。
作品を観て、ただ感動して終わるんじゃなくて、「これ、自分にも当てはまるかもしれない」とか、「周りにも困ってる人がいるかもしれない」と感じた人が、助けてくれる人や相談先の存在に気づけるような企画にしたいなと思ってます。
もちろん、作品として楽しんでもらうのが前提ではあります。
でもそれと同じぐらい、観た人が自分や身近な人の『生きづらさ』や困りごとに、少しでも気づけるような仕掛けは入れたいと思ってます。

『生きづらさ』は、発達障害の人だけのものじゃない

ゆー:新しい台本を読んでいて、「『生きづらさ』って発達障害の人だけのものじゃない」というメッセージも感じました。
それって意図的なんですか?

まごいち:かなり意図的です。
そこは今回かなりこだわってるところですね。
支援の現場では、「発達障害の人にわかりやすいようにする」って、“特別なひと手間”みたいに感じられがちです。
でもそれって結局「誰にでもわかるように具体的に伝える」ってことなんですよね。
たとえば仕事の手順書でも、ちゃんと整理されているものは、当事者だけでなく結局みんなにとってわかりやすいはずなんです。
だから、『生きづらさ』を減らす工夫って、一部の人のための特別なものというより、誰にとってもプラスになることがあると思っています。

ゆー:発達障害の話題の中で『生きづらい』って言葉はすごく使われるけど、「『生きづらさ』があるのは、発達障害の人だけじゃないよね」って、私もずっと思ってました。

まごいち:それを言い出したの、うちの副代表のcOsmOs(コスモス)なんですよ。
cOsmOsは医療従事者でもあるので、その経験や感性もあって、「『生きづらさ』はみんなが抱えるものだから、すべての人に寄り添うものを作りなさい」って言っていて。

僕、穏やかに見られがちですけど単に並大抵のことでイライラしないってだけで、そこまで穏やかな人間じゃないです(笑)。
心ない言葉を投げる人には「めっちゃ嫌い」って思いますし、「ここは許せん」ってなったらかなりビシッとなります。
でも、理解してほしいなら、まずは相手のことも理解しようとしなきゃいけない
それは道理やな、と。
だから『生きづらさ』を枠にはめずに、まず目の前の人と向き合う。
そこを今回、かなり考え抜きました。
僕自身、これまで教育や支援の現場で働く中で、少しの理解があれば違ったはずの場面を何度も見てきたんです。
そういう経験で感じたことも、この作品にはかなり影響していると思います。

当事者は、代表者ではない

ゆー:ヒバリくんって最初、「自分は当事者だから当事者のことがわかるはずだ」みたいな立ち位置にいますよね。
でも、この作品ってそこを肯定してない感じがしていて。
当事者って、実際そういうふうに“代表”みたいな感覚で語ってしまう人も多いと思うんですけど、その危うさへの視点は、やっぱり意識してるんですか?

まごいち:めちゃくちゃ意識してます。
そこに対して思うところがあるから、この作品を書いたっていうのもあります。
僕自身、発達障害の当事者ではあるんですけど、ヒバリくんは僕そのものではありません。
僕には不登校経験もないし、学校との向き合い方も生い立ちも違う。
似たエピソードはあっても、同じ人間ではないんです。
今回の作品って、「当事者は代表者ではない」っていうのが、一つ流れてる考え方なんですよね。
だから、僕がそのまま自分を投影して、「これが当事者です」っていうふうにはしたくなかったんです。

ゆー:私も「私たち当事者はこう思っています」みたいな大きな主語で語られると、「いやいや、そんなことないです」って思うことあります(笑)。

まごいち:そうなんですよ。
だからこの作品は「当事者なんだから分かってよ」ではなく、「当事者側も向き合うべきことがあるよね」というところから書き始めているんです。

許せなさは、創作の原動力でもある

ゆー:ここまで聞いていて、教育や支援の現場で見てきたものも大きいけど、まごいちさん自身の過去の傷やトラウマも、ヒバリくんという人物像に影響してるんですか?

まごいち:そうですね。
たいてい「自分も悪かったな」と思うんですけど、どうしても許せないことはあります。
中学の時に自分に危害を加えてきた同級生に、ばったり会うことがあるんですよ。
向こうは普通に話しかけてくるんですけど、こっちからしたら「お前、俺に何してきたと思ってるんや」ってなる。
なんで普通に挨拶できると思ってるんやろうって。
今回の作品でも、過去にヒバリを傷つけた人物との関係を通して、「どうやったら相手を許せるのか」という部分はかなり考えました。

ゆー:答えは出たんですか?

まごいち:出しました。台本の中にあります。

ゆー:そこはやっぱり、作品で見たいところですね。
まごいちさんも同じ状況なら相手を許せますか?

まごいち:そうですね……。
ただ、現実の自分としては、許してしまうことはちょっと怖いです。
「許せない」って、一個のエネルギーでもあるので。
報復するわけにはいかない。
でも、どこにもぶつけられない感情はあります。
だから僕は、演劇や映画みたいな創作活動で昇華してるところがあるんです。
「悔しさ」とか「許せなさ」って、表現の原動力にもなるんですよね。

ゆー:それを聞いて、ちょっと思ったことがあって。
うちの息子が何か悪いことをして怒られると、「自分が嫌いだ」みたいになることがあるんです。
その時に私はいつも、「悪いのは人じゃなくて、罪だよ」って言うんです。
人そのものを否定してるんじゃなくて、その行為がダメなんだよ、って。

まごいち:それいいですね。

ゆー:あはは(笑)。
だから、たとえ昔まごいちさんを傷つけた人が今はいい人になっていたとしても、やったこと自体は消えない。
相手を許せるかどうかと、その時に受けた怒りや傷がなくなるかどうかは、別の話なんじゃないかなって思いました。

まごいち:浄化しないで〜。

ゆー:だめですか(笑)

まごいち:でも、そうかもしれませんね。
『生きづらさ』って、なくせばいいもの、消えれば終わりのもの、っていうだけじゃない気もしていて。
しんどさがあるからこそ、自分が今ここで生きてるって感じることもあるというか。
『生きづらさ』って、「生きる、『息』をする『辛さ』」とも読めるじゃないですか。息が辛いからこそ、自分が「呼吸して生きている」って自覚できる、みたいな感覚はあります。

ゆー:おぉ……その言葉、いつか台本に入りそう。

まごいち:入れるかもしれないです。

撮影するまごいちさん
障害受容がテーマの作品『グレーのない』を撮影するまごいちさん

舞台とドキュメンタリー、最初から二本軸だった

ゆー:舞台とドキュメンタリーが並行して進んでいますが、まごいちさんの中でそれはどうつながっているんですか?

まごいち:最初から二本軸なんです。
一つは、当事者が「自分だけじゃないんだ」と感じてもらうための軸。
もう一つは、舞台の制作過程そのものです。
役者が役を与えられて、その人物をどう理解し、生きようとするのか。
演出やスタッフが、どうやってその人物を表現していくのか。
それって演劇をやってる側からしたら日常かもしれないけど、外から見たら十分ドキュメンタリーになると思うんです。

ゆー:完成した舞台だけじゃなくて、そこに至るまでの試行錯誤にも意味がある、ということですか。

まごいち:そうですね。
今回みたいに『生きづらさ』を扱う作品やからこそ、役者や演出が簡単にわかったつもりにならず、理解しようともがく過程そのものにも意味があると思ってます。
舞台だけやったら伝わらないものもあるし、ドキュメンタリーだけやったら届かないものもある。
その二つがあることで、ようやく見えてくるものがあるんじゃないかなと思ってます。

ゆー:ドキュメンタリーって、もともとは私も含めた当事者のことを中心に撮る話だったじゃないですか。
そこから、いおり監督の提案で、まごいちさん自身が主軸になっていきましたが、それについてはどう思ってるんですか?

まごいち:いやー、本当は僕は引っ込んどきたい気持ちなんですよ。
別に自分が前に出たいとか目立ちたいっていう気持ちはそんなになくて。
どっちかというと黒幕でいたい人なので。
あとなんか、「あいつ、自分の金で自分のドキュメンタリー作ったらしいで」みたいに見られるのも嫌じゃないですか(笑)。
でも「こういう人がいる」っていうのを見せること自体が、この企画では大事なので、そうなると、僕が出たほうが伝わるんやったら、そうせざるを得ないかな、っていう感じです。

八柳まごいち(とまりぎクリエイターズ)
数学の中学校の講師、通信制高校の教員を経て放課後等デイサービスの児発管として発達特性や不登校傾向のある子どもたちの支援を行う傍ら、とまりぎクリエイターズの代表として舞台企画・脚本を中心に表現に携わる。 取材を軸とした企画や脚本に定評があり、原作、プロデューサーを務めた不登校を題材にした映画『絆王子』は映画祭で複数受賞し海外上映を果たし、支援者や当事者による上映会や教育・福祉職員への研修会と幅広く使われている。

ゆー

あなたの感じたことも、よければ聞かせてください
『プロジェクトヒバリ』は、「生きづらさ」を簡単にわかったことにしないためのプロジェクトでもあります。
この記事を読んで感じたことや、ご自身の経験、思い出したことがあれば、よければアンケートで教えてください。
いただいた声は、今後の連載や発信を考えるうえでも大切に読ませていただきます。
【アンケートはこちら】

次回は稽古場へ

まごいちさんの思いから生まれた脚本が、演出や俳優を通してどのように舞台になっていくのか。次回は稽古場での試行錯誤を、引き続きゆーの目線でお届けします。

この記事は役に立ちましたか?

『凸凹といろ。』のもうひとつのかたち。
原点である紙のフリーペーパーも、ぜひ手に取ってみてください。

編集長・デザイナー

『凸凹といろ。』の発案者で、代表。全体の企画、編集、デザインなどを行なっています。 時間感覚、短期記憶の弱さ、衝動的な発言(失言)や不注意など、自身の発達特性が原因でうまくいかず、 “人と働く”ことは早々に諦め、現在はフリーランスでデザイナー、イラストレーターとして仕事をしています。 やりたいこと、気になることが多すぎて手が回らないのが悩み。 タスク管理や見通しのつきづらい仕事にはなかなか手をつけられないなど困った特性がある反面、思いつきや衝動で動くことも多く、一旦動き始めるととても行動が早い。 雑談や人付き合いへの苦手意識が強いが、基本的に人が大好き。

関連記事

心もからだもささえる、あなたのいしずえに。

PR
訪問看護ステーションいしずえ
お取り寄せページ
目次